本覺寺について

眞如山 本 覚 寺

創立 永禄五年(1562年)
開祖 定證院日守上人
現在 福 原 日 悠
所在地 大阪府枚方市田口山 2丁目6-1
枚方本覚寺 山門の桜

沿革

永禄五年 京都妙蓮寺の僧日守大徳が布教の場として大阪上町に開山。定證院日守大徳は武田信濃守の末葉武田弾正入道義次の二男。

文禄四年七月十四日 秀次公は謀反を理由に秀吉より切腹を命じられ、高野山青巌寺にて自刃、その一族四十人も京都三条河原で処刑された。のちに秀吉は、秀次と一族の刑死に心を痛め秀次の菩提を弔うため 慶長二年日守上人を招き大阪唐物町北端に堂宇を建立し菩提寺とする。 その後兵火に罹り高津梅渓に難を避けた。この地に植林庵と称する大商人、また豪商天王寺屋も日守上人の高徳に帰依。莫大なる浄財を投げ出し高津生玉に宏壮なる寺院を建立す。 秀吉は大阪城築城のため、全国より石垣に使用する石を集めており寺院の周辺を石垣で囲った。このため「石垣城」とも呼ばれた。当時 、寺の境内には「開かずの井戸」があり、大阪城から地下の通路で繋がっていたとされる。秀吉はこの寺に「眞如山」の山号を贈り、記念として呂宋の壺と紫地袈裟を寄贈。当時は薬医門を備え、大堂伽藍が聳え立つ巨刹寺院であった。

延宝五年五月二十五日 井原西鶴は此処で一日一夜千六百句の独吟俳諧を興行した。

明治元年十一月十九日 政府より外国領事館員の接待宿舎を命じられたが、その日宿舎となった本堂より出火。第二十一世日宣上人はその責を負い火中に殉死さる。

明治十一年 第二十二世日喜上人の時代に再建、更に第二十五世日事上人の時、客殿・大書院等を再建す。

昭和二十年三月 大阪大空襲の際に全焼。第二十六世日稔上人が浄財勧募に駆け巡り、昭和二十二年五月に再建。

昭和四十七年七月 第二十七世日祥上人代に大阪市南区中寺町より枚方市に移転し堂塔伽藍等の整備を行う。今に至る。


有賀長因(歌人)、並木宗輔(大阪浄瑠璃・歌舞伎・狂言の作者)、稲葉通龍(刀剣装飾研究家)の墓所。

枚方本覚寺 秀次公菩提之塔

秀次公菩提之塔

枚方本覚寺 有賀長因墓所

有賀長因墓所

枚方本覚寺 並木宗輔墓所

並木宗輔墓所

枚方本覚寺 稲葉通龍墓所

稲葉通龍墓所

豊臣秀次(1568-95)

安土桃山時代の武将。永録十一年に生まれる。父は秀吉の近臣 三好吉房。母は秀吉の実姉 とも(日秀)である。
賎ケ岳の戦い 四国・小田原征伐などで戦功をあげ、検地や刀狩りを実施。秀吉の嗣子 鶴松の天折により、天正十九年(1591)秀吉から関白職を譲られ聚楽第に入る。文禄元年(1592)に人掃令を発し、全国一斉に 家数・人数を調査し、夫役労働力の把握に努める。又古事や芸能を好み、経典の補修などに多大な貢献をした。文禄二年(1593)秀吉に実子秀頼(母淀殿)が誕生すると関係が悪化し、文禄四年(1595)謀反の疑いをかけられ、関白・左大臣の職を解かれる。七月十五日高野山にて切腹(二十八歳歿)。他切腹五名(小姓四名・僧侶一名)殉死者五名(重臣)。 同年八月二日子女・妻妾ら三四名、多数の近臣も京都三条河原にて斬首される。このような暴力的処断は豊臣政権の崩壊を早める結果となる。

有賀長因(1712-78)

正徳二年(1712)有賀歌学の祖 長伯の子として京都に生まれる。有賀家は長伯・長因・長収・長墓・長隣と親子五代およそ170年間にわたって大阪歌壇に盛名をはせた家柄である。
はじめは長川といい、のちに長因に改め敬義斎と号した。
父の家学を受け宝暦七年(1757)以後 大阪折屋町(東区大手通二丁目付近)に移り、大阪歌壇を指導し大阪和学の名を高める。国学の大家 本居宣長とも交友があった。歌は『蔵山集』などにある。
安政七月五日六十七歳で没す。

並木宗輔(1695-1751)

享保―寛延時代の大阪の浄瑠璃・歌舞伎・狂言作者。元禄八年生まれ、通称松屋宗助。初名は並木宗助のち宗輔と改める。劇界での並木姓作者の祖で 門下に宝暦期歌舞伎の名作者並木正三を始め、丈輔・永助‘良輔等。又別名の並木千柳は弟子翁輔が二代目を継いでいる。
宗輔は若い頃 僧となるが、豊竹座の作者西沢一風の門に入り、劇作の道に入った。
享保十一年四月 豊竹座上場の「北篠時四頼記」を西沢一風・安田蛙文と合作したのが処女作で,幸いに好評を博した。時に三十歳。この作は、四月八日初日で、翌年の正月末まで引続いて興行したほどの大当たりを取り豊竹座の基礎はこれによって確固たるものとなり 又作者としての手腕を認められたとも云える。延享二年、並木千柳と名のって竹本座に転じ、竹田出雲・同小出雲・三好松洛らと合作「夏祭浪花鑑」「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」「双蝶々曲輪日記」等々、今日でも舞台生命をもつ幾多の傑作を続々と発表した。これらは寛延三年十一月までの間に作られたが、この時期はまた人形浄瑠璃全盛期の頂点とも云うべき時代でもあった。
竹本座にあること六年。宝暦元年 並木宗輔の名で再び豊竹座に復帰。 「一谷嫩軍記」の三段目まで執筆を終わったところで、遂に完成せずに 九月七日 五十七歳で没す

稲葉通龍(1736-1786)

江戸時代中期の版元、刀剣装飾研究家。元文元年生まれ。大阪の人。医師から出版業に転じ、店舗芝翠館をひらく。刀剣装飾の鑑定にすぐれ、金工の名鑑「装剣奇賞」(刀装具や根付といった細密工芸に関する初の本格的な手引書)「鮫皮精義」「更紗図譜」等をあらわす。

西鶴と本覺寺

大阪市中央区中寺町にあった本覚寺は、真如山と号し本門法華宗妙蓮寺末、永禄五年日守上人の開創という。定證院日守大徳は加賀金沢の産、武田信濃守の末葉武田弾正入道義次の二男善寿丸の二得度名である。江戸時代には、このあたりまで生玉といわれ、二千三百余坪の境内に本堂・書院・小座敷・庫裡・薬医門等を備え、宝塔のほかに鎮守堂まであった巨刹である。
 延宝五年五月二十五日、西鶴は此処で一日一夜千六百句の独吟俳諧を興行した。その成果は「西鶴俳諧大句数」として刊行され、いわゆる矢数俳諧の最初を記録したのである。当時の俳諧は連衆による連歌連句が普通で発句の様式を俳句と云うようになったのは、明治の正岡子規あたりからである。従って、西鶴の矢数俳諧は連吟を一人でやったものと云うわけである。
 本覚寺に於ける西鶴の独吟興行は諸役立会のもとに、数百人の人々の前で行われたと云う。この方式は後の生玉南坊・住吉社前に於ける時にも踏襲されている。即ち生玉南坊での四千句独吟俳諧は「数千人の聴衆が庫裡・方丈・客殿・廊下を使い、三日懸けて巳前より」(大矢数)詰めかけ、指合見五人・脇座十二人・執筆八人等五十五人の役人立ち合のもとに招請した俳諧師の出座七百有余人の大興行と記録にある。小西来山は、本覚寺の千六百句、生玉南坊の四千句、住吉社前の一昼夜二万三千五百句と西鶴の独吟興行にはかかさず同席している。
 矢数俳諧とは京都三十三間堂の通し矢に倣ったもので、三十三間堂は柱間が三十三間あることを意味し、従って建物の実際の大きさは六十六間(約一三○メートル)である。この本堂裏の縁で、端から端まで矢を通す弓の競技を云い、端まで達した矢数の最も多い者を弓道抜群として表彰、堂前に遠矢数の額を奉納する武道奨励の一行事で、江戸時代に盛んに行われ、西鶴の当時は尾州藩士星野勘左衛門がこの通し矢により天下一の名を得ていた。西鶴の〈大句数〉はこの「大矢数」になぞらえたもの。一日二十四時間内の句数の多さを誇ったもので、この行事は西鶴が初めてである。住吉社前の二万三千五百句は、もちろん現在でも最高を記録している。

本覚寺をイメージして曲を作って頂きました。

知人のシンガーソングライター、HIROSHIさんが本覚寺をイメージした曲を作ってくださいました。

お檀家様がお母様に送られた曲です

お檀家の宮下雅行氏が、お母様(妙子様)の米寿のお祝いに自ら作詞作曲して贈られた歌です。
妙子様は令和4年12月。97歳で天寿を全うされました。

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